「月は二度、涙を流す」その@


第一章
0 今まで

 空が蒼い。それはごく当然のように蒼い。雲が流れ、千切れていく。
 辺りは山だ。大小様々な山が周りを取り囲んでいる。緑色や茶色の葉が山を覆い、大きな苔に見える。その苔のような山々の中に一つだけ大きな家があった。中世の西洋を感じさせる赤い煉瓦と白い壁で出来た屋敷。巨大で、言い知れぬ威圧感がある。その屋敷を取り囲む、小さな森。更にそれを囲む花の咲き乱れる草原。絵画の風景のような、美しい眺めだ。
「いい風。そう思わない?」
「思うよ」
「絶好の日よね」
「ああっ」
 屋敷から随分と離れた草原の中に二つの人影があった。男と女だった。
 男の方は柔らかそうな薄茶色の髪の毛を風になびかせ、女の行動をじっと見ている。細い体付きで、瞳は何人もの人間を刺し殺してきたナイフのように鋭く、冷たい。やや皺の目立つワイシャツを着こなし、胸ポケットには煙草が入っている。美青年という名の銅像がそのまま動きだしたかのような、そんな形容が当てはまってた。
 赤い髪の毛を無造作に束ね上げている女は、その細い腕には似合わない鋼鉄のライフル銃を手に持ち、弾を込めている。美しい顔立ちだが、瞳は男と違い何かを求めるかのようにぎらついている。少し汚れた簡素な白いドレスを着ている。そのせいか、美しい体のラインがより強調された。今まで独りで生きてきた雌の狼。そんな感じの雰囲気を、女は漂わせていた。
 赤や黄色い花が風で微かに揺れている草原の真ん中で、女はライフルを構えた。そして、一発だけ空に向かって撃ち放す。鋭い轟音が幾重にも連なり蒼い彼方に消えていく。女は唇を弛ませて小さく微笑み、銃身を舌で美味しそうに舐めた。それを見つめる男の目は相変わらず冷たい。
「さてと。時間もちょうどいい頃ね。行きましょう」
「また、恵美さんが撃つのか?」
「‥‥望さんも撃ちたい?」
「いや、やっぱり見てるだけでいい」
 望(のぞむ)は煙草を取り出し、一本を口にくわえた。その瞬間、恵美(めぐみ)が不意に望にライフルを向け、躊躇する事無く引き金を引いた。風を切る音と同時に鳴り渡る銃声。望はその場から一歩も身動きしなかった。ライターを持つ手が石像のように固まっている。彼のくわえている煙草には火がついていた。ライフルの弾が、煙草の先を掠めていた。
 嬉しそうに望の表情を観察する恵美。望は大きく息を吸い込むと、吐き出した紫煙を恵美に吹き付けた。
「撃つ標的が違うぞ」
「知ってるわよ」
 恵美はライフルを下に降ろし、望の首筋を悪戯っぽく舐めた。望は無表情のまま、草原の遠く向こうを眺めていた。風が吹くと、恵美の赤い髪の毛が望の鼻を掠めた。心地好い、シャンプーの香りがした。恵美は腹を空かせた獣の眼光を、草原に投げていた。


 同じ蒼い空の下に、一人の少女がいた。少女は全裸だった。黒く少しカールのかかっている髪の毛が、上下左右に乱暴に揺れている。少女はどこまで行っても果ての無さそうな草原の中を駆けている。手首には何かを強く擦ったかのような、赤い痣がある。少女はその痛々しい手首を時折、猫のように舌で舐めながらも、後ろに人影が無いか確かめた。震えの止まらない腕を懸命に振りながら、怯えた表情で後ろを見つめる裸の少女は、弱々しく脆弱だった。まるで枯れた花の蜜を啜ろうとする傷だらけの蝶のように。
「‥‥‥‥」
 何故、こんな事になってしまったのだろう。何度も荒く息継ぎをしながら、少女は思う。つい先週まで、お父さんとお母さんと三人で仲良くご飯を食べていた。学校に行って親しい友人と一緒に今度の日曜日にどこに買物に行こうかと話していた。先月、好きな男の子に渡したチョコレートのお礼は何だろう、と毎日考えていた。それがつい三日前、お父さんはもう帰ってこないと言って家から出ていき、お母さんはそれからお酒ばかり飲むようになった。そして、昨日綺麗な赤毛をした女の人に車に乗せられ、着いた所は大きな屋敷だった。大きく、見た事も無い家。
 そして、今、裸でここにいる。服を脱がされ、鉄砲を持ったあの赤毛の人にこう言われた。優しい、和むような口調で。
 あなたは悲しい鳩の子供よ。さあ、逃げなさい。鉄の手枷を外して、自由な空に飛び立ちなさい。
 私は走った。女の人が自分にライフルを向けたからだ。
 私は狩人。自由を削ごうとする。逃げても逃げても追っていくわ。さあ、私から逃げなさい。どこまでも、何もかもかなぐり捨てて。
 私は走った。恐かったから。女の人が私の心の奥を貫くように、笑ったから。


 銃声が再びこだました。少女の白い尻のすぐ後ろを、ライフルの銃弾が掠めた。少女は道無き草原を走り続けた。それを負う赤毛の恵美と、冷たい瞳の望。恵美は再び少女に狙いを定めて引き金を引いた。また響く銃声。恵美は立て続けにライフルを撃ち放った。しかしそのどれも、少女の体を掠めただけで当たらなかった。
 少女は泣き叫びながら走り続ける。
「あなたの育ちを恨むのね。だらしの無いお父さんと、無慈悲なお母さん。あなたは二人から見放されたのよ。たった、二百万ぽっちのお金でね」
 弾を詰め替えながら、恵美は独り言のように呟いた。それを聞きながらも、何もしようとせず煙草をふかしている望。二人はゆっくりと歩きながら、少女を追った。歩く度に、小さな青紫色の花が何本も踏み潰された。
 二人は歩いて、少女は走っているのに、その距離は段々と縮まっていった。半狂乱となった少女は走っているつもりが、実は何度も躓き、足を縺れさせていた。それに比べて、何の動揺も無く、普通に歩いている恵美と望は確実にその歩幅を増やしていた。
 少女は小さな木の陰に身を潜めた。立ち止まっても、心臓の鼓動と荒い呼吸は止まらない。小さな胸が別の生き物のように上下に膨らんだりしている。血走った瞳が目の前に咲いている蒼い花を見つめている。
 辺りを見渡す。本当はもっと大きな木の裏に隠れたかった。しかし、辺りにはこれ以上大きな木が無い。他にはふくらはぎ程度の高さの草と花しかなかった。遠く、地平線の向こうから赤い髪の毛がゆらゆらと風に揺れながらこちらに迫ってきている。少女は涙の止まらない瞳で、黄緑色の地平線を見た。赤髪が立ち止まり、次の瞬間また耳を貫く音がした。何かが風を切り裂いた。
「‥‥!」
 少女の顔が苦痛に歪む。少女の右肩の肉が大きく削ぎ取られていた。血が噴水のように吹き出し、少女の首元を汚した。少女はおぅおぅと呻きながら、その場にうずくまる。生暖かい液体が少女の白い肌を汚し、黄緑色の草を赤黒く染めていく。少女は腫れあがった瞳で地平線を見据える。もう赤髪ははっきりと人の形をしていた。
 少女は肩を押さえながら立ち上がり、その場から逃げようとした。しかし、足が震えて上手く進んでくれない。少女は歯を食いしばりながら、ぶるぶると震える足を前に出そうとする。しかし、その足のくるぶしが銃弾を食らって飛び散ってしまうと、もはや歩く事も出来ず、その場に再び倒れこんだ。自分の傷口から飛び散った血が蒼い花につき、不気味な紫色になっている。
「羽をもぎ取られてしまった鳥は、もう飛べないわね。可哀相‥‥」
 恵美は血を流しながら草原の中でうずくまる少女を見て嘲ら笑った。ドレスのちょうど太股の付け根辺りがじんわりと染みを作っている。その笑いは、男と交わっている時と同じだった。
「私を残酷だと思う?」
「‥‥」
 ライフルの銃口を少女の額に当てながら、恵美は訊ねた。少女は答えなかった。望は煙草をくわえながら空を仰いでいる。髪の毛が黒く澄んだ眼の前をかすめる。まるで目の前の光景よりも、空を眺めている方が面白い、とでも言いたげな雰囲気だった。恵美は望を一瞥して、再び少女を見た。少女は恵美を睨み付けていた。憎しみと憎悪に埋もれた瞳を、恵美から放さない。それを眺め、恵美はいつにも増して明るい笑顔を浮かべる。
「そうでもないわよ。きっと、あなたが私と同じ立場だったら、きっと悪いなんて全然思わないわ」
「‥‥」
 望は煙草を草原の中に落とし、靴の裏で踏み潰した。恵美は笑うのをやめて、ライフルを持つ手の人差し指に力を込めた。
「天国で会いましょう、お嬢ちゃん」
 少女の顔が美しい血の花を咲かせて大きく後ろに飛んだ。目玉がたちまち赤く染まり、体中を痙攣させながら転がる。陰部から黄色い液体が流れだし、口からは唾と一緒に血が吐き出される。
 綺麗な草原の中で、深紅の池の真ん中で何もかもを忘れていく幼い少女。この光景はいつ見ても幻想的で魅惑的だ、と望は思った。
 しばらくはその状態が続いたが、次第に痙攣が止まり、血も固まり、尿も出なくなった。恵美は望の胸ポケットから煙草を一本拝借すると、その煙草の先にライフルの銃口を向けて撃った。そして、気持ち良さそうに煙を宙に投げ出した。
「やっぱり、普通の子はつまらないわね」
「・・十五分。最短記録だったよ」
 まだ暖かい少女の白い太股に触れながら、望は言う。その言葉の感じは少女が生きていた時と何ら変わり無い。
「でも綺麗ね。都会の子の体って」
 恵美は少女の血を一雫、指で掬うとペロリと舌で舐めてみせた。少女の瞳から、涙のように血が流れ落ちた。


 太陽はその眩しい姿を潜め、今は月が紺色の空に浮かんでいる。少女の死んだ草原も、今は静寂だけが立ち篭めている。鳥達は森や草原の中で羽を休め、動物は親子で抱き合いながら深い眠りについている。
 そんな中、唯一賑やかなのが屋敷の一郭だった。三階建ての屋敷の二階の真ん中の大きな部屋。真っ赤な絨毯が敷き詰められ、天井には電気式ではあるがシャンデリアが吊り下げられている。古風な暖炉やテーブル、リクライニングチェアーがあり、純洋風な雰囲気を醸し出していた。
 部屋の中には、望と恵美の姿があった。他にも四人の男女の姿が見受けられる。六人はテーブルの周りを取り囲んでいる。テーブルにはケーキとシャンパンが置かれている。
「光。誕生日おめでとう」
 大柄な男が、稲穂色の髪の毛を肩くらいまでのばした少女の頭を撫でた。光(ひかる)と呼ばれた少女は小さくお辞儀をして、ありがとう、と答えた。大きな瞳、三日月のように細い眉、触れれば汚れてしまうような白い肌。ガラス細工の人形のような少女は、顔を上げると望や恵美にも可愛らしい微笑を向けた。
 男の方は四十は過ぎているようで、髪の毛には幾分白髪が混じり、鼻の辺りに皺が出来ている。しかし老いた雰囲気は無く、がっしりとした体格が逆に彼を若く見せていた。
「お父さま。私、何歳になったのか、知ってます?」
 真珠をちりばめたような、薄桃色のドレスを着た光が上目遣いで男に訊ねた。お父さまと呼ばれた大柄の男は、くわえている葉巻を手に持ちわざと口をへの字に曲げた。
「うむ。時が経つのは早いものだからな。私はずっと十歳のお前がいいんだが、もうお前は十六歳なんだな」
「あら? ちゃんと分かってたのね。てっきり知らないと思っていたのに」
 光が驚いた様子を見せると、男は再び葉巻をくわえ、シャンパンに手をのばした。
「自分の娘の歳くらいは分かるさ」
 男、篠山昇(しのやま のぼる)はまた娘の頭を撫でながら低い声で笑った。光もそれにつられて笑った。
 昇の横に漆黒の美しい髪の毛を背中を覆い隠す程にのばした三十代前半くらいの女性がいる。細い瞳、整った鼻とピンクに近い赤い口紅をつけた口。露出の少ない黄色のドレスを見事に着こなし、時折量の減った夫の昇のグラスにシャクパンを注ぐ。別段自分から喋るわけでもなく、二人が笑えばそれに同調するように静かに微笑む。昇の妻であり、光の母でもある篠山優香(しのやま ゆうか)は二人の傍から離れなかった。それを横目で見つめる望。
「恵美。他に料理は無いのか?」
 そう恵美に、色黒の男が言った。昇に負けずと劣らない見事な体格、綺麗に染められた金色の髪の毛をのばし後ろで束ねあげている。そして、僅かに浅黒い健康的な肌。恵美は男の方を振り向くと、あとはデザートのアイスクリームがあるわ、と言った。男、日野真一郎(ひの しんいちろう)はそうか、とつまらなそうに答えた。
「七面鳥か何かの丸焼きでも期待してたの?」
 恵美がどこか誇らしげな笑みを浮かべて真一郎に聞く。真一郎は苦々しく破顔すると、
「知ってるだろ? 甘いものが苦手だって事」
 と答えた。恵美は勿論、と言いながらも込み上げてくる笑いを抑えられなかった。
「望。蝋燭に火を付けてくれないか?」
 昇は上機嫌で息子にそう言った。望ははいと無感情に言うとポケットからジッポーライターを取り出し、ケーキに突きささった七本の蝋燭に火を灯した。一本だけが、他の比べて少し長い。
 優香が足早に部屋の出入口に近付き、電気を消した。室内がパッと暗黒に包まれる。その中で七本の蝋燭の揺らめきだけが色鮮やかに見えた。窓から碧色の月光が射し込んでいたが、蝋燭の輝きに掻き消されていた。
「光さん。火を消す? それとも、このままデザートでも食べましょうか?」
 恵美が今日の昼間の“狩り”の時には想像も出来ないような明るい口調で光に告げた。光はしばらく蝋燭の炎を見ていたが、やがて顔を上げて、アイスクリームが食べたいわ、とその可愛らしい顔に見合った声で云った。
 恵美は優香と共にアイスを取りに部屋を出た。部屋に残された三人の男と一人の少女は、互いの顔もはっきりと分からない。しかし光の顔は生きた陶器製の人形を、そして望の顔は美術館に飾られている利発そうな青年の顔を連想させる程に美しく見える。
 蝋燭の橙色の輝きの中、四人は意味の無い会話をした。それは学校の事だったり、読んでる本の事だったり、友人の話だったり、後に残る事の無い話だった。しかしその輪の中に、望だけが入ろうとしなかった。
 望はこういう事が嫌いだった。儀式でしかない行為。その中に身を置きたくなかった。しかし、妹の光が十六になった事は嬉しい事だった。この日をどれほど待った事か知れなかった。彼女を妹ではなく一人の女として愛してから、三年の月日が経っていた。
「高校は楽しいか? 進学率の高い女子校だから、規則とか厳しくないのか? 何なら校長に言ってもいいんだぞ?」
 昇は高そうな葉巻を灰皿に置いて、光に訊ねる。葉巻から出る煙は、この薄暗い部屋の中では全く見えなかった。鼻に残らない仄かな香りだけが、葉巻の煙を印象付けている。
「そんなに過保護にならなくていいわよ。友達とは仲良くやってるし、規則だってそんなに厳しくないわ」
「そうか、ならいいんだ。ほら、父さん、どんな学校か一度も行った事が無いし、なにかと心配でな」
 昇が落ち着きの無い素振りを見せる度、葉巻の煙が掻き消えた。
 昇は不動産を営んでいた。全てをゼロから始めたが、その手腕と卓越した頭の回転で、彼は十年もしないうちに莫大な財産を手に入れた。街から遠く離れたこの西洋風の館も、その財産で建てたものだった。しかし、その財産と引き替えに彼は娘や息子と過ごす多くの時間を無くさなければならなかった。そして、三年前の前妻の死に目にも会う事が出来なかった。
 そんな彼に優しい言葉をかけたのが、優香だった。
 優香は何事にも完璧な女性だった。昇の仕事の右腕としては勿論、思春期の望と光にも何の抵抗も無く溶け込み、この巨大な屋敷のやりくりを全て自分一人でやってのけた。しかし、やはりたった一人で全てを切り盛りする事は出来ず、その結果屋敷に来たのが、日野真一郎と妻恵美の二人だった。恵美と真一郎はその外見とは裏腹に、実直に仕事に従事してくれた。
 しばらくして、恵美と優香が色とりどりに美しく飾られたアイスクリームを銀色のトレイにのせて運んできた。蝋燭の炎だけに照らされた橙色のバニラアイスクリームを見て、望は昼間の狩りで死んだ少女の太股を思い出した。
「綺麗‥‥。これ、恵美さんが作ったんですか?」
「そうよ。朝から作り始めたんだけど、出来上がりは夕方になってしまったの」
 丸いアイスクリームが十個程度、皿の上には乗せられている。その一つに、赤いソースのかかったものがあった。光がこれは何のソース? と聞くと、恵美はチェリーソースです、と答えた。スプーンを持って赤い液体のかかったアイスを口に運ぶ光。それをじっと見つめる恵美。
「‥‥美味しい! 甘酸っぱくって」
 そう光が元気に答えると、恵美は満面の笑みを浮かべて良かった、と声を弾ませた。そのソースはただのチェリーソースではなかった。それを知っているのは望と恵美だけだ。それはあの少女の残り香。少女がこの世に生きていた確かな証拠。すり潰されたチェリーに加えられた少女の深紅の血は、ソースをより甘く赤いものにしていた。
「さあ、光さん。火を消しましょうか」
 二口目の血のアイスを口に運ぼうとした光に、優香が言った。光は少し残念そうにアイスを皿の上に戻して、ケーキの前に立ち、大きく息を吸い込んだ。そして、皆が見守る中で一気に炎を吹き消した。辺りには薄蒼い夜空の輝きだけが残った。
 小さな拍手がまき起こり、その中で光は恥ずかしそうに顔を赤らめた。拍手は屋敷の外に漏れる事が無く、森も草原も静寂のままだった。


 もう光は寝ただろうか? 紫煙の揺らめく青白い部屋の中で、望は思った。時間は午前三時半。きっともう、昇も優香も寝てしまっただろう。今起きているのは、この部屋にいる者だけだ。やけに重い腕を持ち上げながら、望は煙草の煙を辺りに吐き散らした。甘い香りの煙は薄暗い部屋の中をしばらくうろついた後、誰にも気づかれずに消えた。
「望さん。何やってんのよ? 早くこっちに来てよ」
 恵美が真一郎の性器を口から吐き出し、いやらしく呟いた。真一郎は甘い匂いのする煙草をふかしながら、望の方を見る。二人は月明かりだけが照らすベッドの上に寝そべっている。二人共、全裸だった。恵美は猫のように四つん這いになり、真一郎の股に顔を埋めている。真一郎は長い髪の毛を汗で首筋にはりつけながら、恵美の滑らかな背中をさすっている。二人の体から吹き出る汗が、月明かりを反射して魚の鱗のように輝いている。
「恵美じゃ嫌なのか? お前のお好みの可愛い女の子もいるじゃないか」
 真一郎は煙草を望に向けた。望の隣には昼間の狩りの時の少女と似た背格好の少女が座っている。薄いTシャツ一枚という姿で、目はその歳には似合わない程潤んでいた。少し微笑んでいる少女の口の端からは、常に細い涎が滴れている。手が何かを欲するかのように宙を喘いでいる。
「‥‥俺は、光がいい」
 望はマリファナの詰まった煙草の煙を深く吸い込み、少女の口に注ぎ込んだ。少女の手が微かに震え、その手が望の股間に触れた。しかし、望の股間はピクリとも反応しない。望は狩りの時と同じ格好をしていた。上も下も脱いでいなかった。再び恵美が真一郎の性器を口にふくみ、音を立てて舐め始める。真一郎はわざとらしく、うっ、と呻き声をあげる。少女の白く細い指が望の首筋を優しく撫でている。望の凍えた瞳は、少女を見る事も無く、空を眺めている。
「随分と高い理想だな。果たして、お前には手が届くかな?」
 恵美の後頭部を押さえながら、真一郎は独り言のように語る。その言葉を聞いた望は、眉一つ動かさなかったが、目の前にいる少女の唇を引き千切るかのように強く吸った。まるでその言葉を忘れようとするかのように、強く、強く。
 部屋は角砂糖が焼けるような、甘い香りに包まれていた。あまりにもその匂いは強く、まるで体の内側に砂糖の粘膜が張りついたかのようだ。望と少女の座るソファの前に置いてあるテーブルには、さっきまで行なわれていた誕生日パーティーの時のアイスがどろどろに溶けている。色々な色の交じったバニラが、皿から溢れてテーブルに落ちている。
 月明かりだけの青白い部屋の中に立ち篭めるマリファナの焼ける匂いと、溶けたアイスの香り。真珠のような汗を流しながら、果ての分からない快楽に身を震わせる女と少女。目に見えない愉悦を噛み締めようとする男。何故、自分がここにいるのかよく分からない男。四人の絡み合うシルエット、そしてそれを幻のようにぼかす煙草の煙。窓から見たらそれはきっと、蒼い海の底でダンスを踊っているかのように見えるだろう。
 恵美と真一郎のベッド枕元に置いてあるステレオから静かなクラシックが流れている。
「フォーレのレクイエムね。静かすぎるわ、この曲は」
 望の隣にいる少女が呟いた。望は少女の首元に顔を埋めながら、そうだね、と言った。望の舌が不意に少女の鎖骨に触れる。少女はピクンと生造りの魚のように足先を震わせた。望は何も言わず、一心に少女の鎖骨を舐め続けた。この体を光の体と思い込みながら。
「‥‥」
 妹のドレスの中を、望は一度だけ見た事があった。それは小さな隠しカメラで、光の入浴を覗き見た時だった。そのビデオはまだ、望の部屋のビデオラックに大切にしまってある。そのビデオをぼんやりと眺めながら、望は自分の性器を玩ぶのが好きだった。目の前の少女を犯す事よりも。
 顔を上げ、魅惑的な表情で自分を見つめている恵美の髪の毛を、真一郎は丁寧に撫で上げる。恵美はうっとりとして真一郎を見返し、真一郎の首に腕をまわし、濃密な口付けを交わす。直線の無い恵美の体が、隙間無く真一郎の体に絡み付き、誰かの描いた抽象画のように一つになる。
「今日はごめんね、狩りに誘わなくて」
「あんまり知らない子だったからな、別に構わないよ。それに、仕事も残ってたしな」
「ありがとう。許してくれたお礼に、今日は私が動くわ。真一郎はじっとしててね」
 耳たぶを甘噛みしながら、恵美は真一郎の性器を自分の体に呑み込ませた。何度感じても飽きない快楽の稲妻が、背骨を突き抜けていく。腰を動かす度に、稲妻は幾度も恵美の体全体を駆けた。
 どのくらいの時間が、この空間では経つのか分からない。恵美は真一郎の上に馬乗りになり、荒く息をしながらその美しい肢体を揺らしている。堅い肉を口の中で噛み切るような粘着質な音が淫らに響き、くぐもった声がそれにリズム良く重なる。首から伝う汗が乳房の表面を流れ、落ちると真一郎のゴツゴツした腹の上で潰れた。真一郎の大きな手が恵美の手に絡み付き、離れようとしない。恵美は霞んだ光景の中で、歓喜に満ちた笑顔で自分を見つめる夫の姿を見る。そして、自分でそうしたのかはっきりと理解出来ずに、真一郎に微笑みを送った。真一郎の視界の中で、微笑む妻の体が揺れている。
 鎖骨を舐められるだけの少女は自分で自分の股間に手を当て、望を胸に抱きながら白い快楽の波に呑まれている。手が暖かい水飴のような液体を絡め、薄暗い部屋の中で一際輝いている。望は深海では自ら光る生き物がいて、この子の手はそれに似ているな、と思った。
 夜は長かった。いつまでもいつまでも、その行為は太陽が姿を現すまで終わる事は無かった。
 刹那の快楽が、永遠に続いた。


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